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ヒストリー(自分史)の棚卸し

自分史を見直す目的

自分に起きた出来事を赤裸々に語ることを躊躇される人も多いでしょう。
けれど、無理をして公表する必要はありません。

目標を見直すためのコーチング的に利用して非公開で持っているものもいいですし、差し障りのない範囲での自己表現の一つとして使うのもいいでしょう。

とくに、自分の過去を振り返ることで、どんな価値観をもって何に取り組もうとしているのかが明確になるメリットがあります。

また、自分史から浮かび上がる一貫した自分の特質を掴み、セルフイメージを再構築することができます。

わたしも差し支えのない部分で、自分の今に繋がる部分を書き出してみました。

再構成したマイストーリー、よろしければご一読ください。


誕生〜小学生時代

兵庫県西脇市7人家族の元に生まれる。
祖父は公務員、祖母は畑をしながら主婦。
母は3人姉妹の長女で墓守娘。
父は婿養子で11人兄弟の末子。比較的大きな家で生まれており、プライドが高いが、劣等感の塊で養子に入ったことを恥じていた。

わたしは中間子として生まれる。
1つ上兄の二つ下の妹がいる。

兄は、松原家に1世代ぶりに生まれた男子。色白で大人しく、びっくりするくらい頭がよかった。

父と兄とよく3人でお風呂に入ったが、10数えるのではなく、2乗して、倍々になる計算をして、何万という計算をしていた。

わたしは退屈して、お風呂で溺れたこともあったらしい。

兄は学校に上がる前に、新聞を読んで相撲の番付の書き取りをしていた。
今思えば、ちょっと自閉症っぽい雰囲気があった。
一つ違うとはいえ、何でもよく出来た兄に比べ、私は女で色黒で計算が遅かった。

兄は大人しくて、蛙が嫌いだった。
わたしは兄のために蛙を放り投げ、道を空けた。
危ない腐った木の橋を渡るときも、兄は慎重で、まず私を渡らせたらしい。(笑)

わたしは向こう見ずの元気が取り柄の内弁慶だった。同時に、チョコレートやコーラの刺激物が苦手で、家で本を読むのが好きな繊細な部分もあった。

母の隣でいつも料理を手伝っていた。
毎日、学校であったことを隅から隅まで報告して、母を感心させたり、笑わせたりするのが好きだった。

父は、兄に囲碁を仕込んだり、いろんな質問をして合っていると褒めた。
わたしには、そういうことをしなかったが、いつも「優しい子やな」と可愛がってくれた。

ところが、父は母に厳しかった。
おかずの品評から、全てにおいてダメ出し。今でいうモラハラだ。

母がかわいそうで、率先していつも愚痴を聞きにいっていた。
松原の家は、質素倹約をもっとうとしていたが、父は派手好きだった。
そういう金銭面の感覚の違いもあり、母は祖父母との間に立ち葛藤していた。
そんな母を助けたいといつも思っていた。

母は、人のことを悪く言わなかったが、父のことはよく非難した。
わたしは父と性質がよく似ていたので、自分を徹底的に抑えるようになった。
もらったお小遣いも全く使わず貯めていた。

大人になってから、妹に言われた。
「そういえば、なんでお姉ちゃんお年玉使わへんのかなって思ってた。」

兄と妹は無邪気に見えた。
なんでこんなにうちが大変なのに、お願い事をしたり、好きなものを自由に買ったりできるんだろう、と思っていた。

でも、今考えると私の認知の歪みだった。

父は、とても面白い人だった。
家に友達が遊びにきたら、必ず友達を笑わせた。
集団登校の朝は、焚き火をして子供たちにみんな温まっていくように言った。
夕飯のときは、一緒にふざけ、歌もよく歌った。

そんなときも母は、暗かった。
唯一、楽しそうだったのは、子供たちの成績を見るときだった。

ど田舎の学校なので、塾にいくような子も少数しかおらず、学校自体は平和だった。

ある日、学校の帰り際、銀杏の木の下で、大勢集まっていた。
小石を投げて実を落とそうとしていたのだ。

なかなか命中していないのを見て、わたしは何倍も大きい石を両手で力一杯放り投げた。
選んだ石が大きすぎて高さが出ず、石は弧を描いて向こう側に置いてあった、先生の新車のクラウンのボンネットに命中した。
めちゃくちゃ大きな凹みができて、私は青ざめた。
それまで、きゃっきゃと騒いでいた皆がしーんとなって、一斉に駆け出したので急いでわたしも追いかけた。
「みんな言わんといてな〜」

一週間ほど、誰も何にも言ってこず、わたしはいつバレるのか怯えながら暮らしていた。
とうとう見つかり、先生がわたしに家に帰って親に言うように告げた。

わたしは、いつものようにランドセルを置いて母のそばに行ったが、その日は事件の報告をしなければならなかった。

言葉が出なくて、涙が出て、しゃくりあげて泣いた。
母は、「泣かんでいい、お父さんに言うからね。」
とだけ言った。

父は「修理したら済むことや」とだけ言い、母にお金を用意するように指示した。

わたしは救われた。
それまでは、欲しいものも欲しいと言えずにいた。
どうやって解決をしたらいいかわからずに隠すしかなかったのに、大人は簡単に解決をした。

わたしは、親に気を使って何もしてもらっていないように記憶していたけれど、こうやって書いてみるとたくさん助けてもらっている。

中学〜20代

中学は地元の公立中学へ進み、バレーボール部に入った。

わたしは肩の力が極端に弱く、アタックが打てなかった。
ただ身長が高かったので、ブロック専門要員になった。

強い球が飛んでくるところに自分から向かっていくのは、苦痛だった。
目を閉じて飛んでいたが、ジャンプ力もなかったので、ブロックさえもうまくできなかった。
レシーブも腰が高いし、根性がない。

苦痛でしかなかった2年半の運動部生活だった。

唯一できたのは、マラソンと水泳。
マイベースでほどほどに続けることは、向いていて、結果も悪くなかった。

筋トレをしても筋肉がつきにくく、わたしは「細長いひょろっとした人」と呼ばれた。
短距離走も、クルクル回転するようなマット運動も、うまくできなかった。
逆上がりも高3までできずにいたが、卒業できないという噂を聞き、夜の小学校に練習しに行った。
17歳にして、逆上がりができるようになった。

何かにガムシャラに向かうとか、限界まで何かをするとか、挑戦することが出来なかった。

学校の勉強も同様に、大事なところだけ話を聞いていて、あとはスルーだった。
「ガムシャラに、限界まで」がやっぱりどうしてもできなかった。

要領が良くて、先生をバカにした態度だったのか、個人的に呼び出されたり職員室で問題になったことがあったらしい。(母親談)先生に生意気だと殴られたこともあった。

中3のときの担任が、わたしに「ダメな大人になる」とロッカー室に呼び出して指導したが、成績がよいのに何を言っているんだろう?とよくわからなかった。

けれど、本当にダメな大人になったな、と後になって実感したものだ。

高校は少し離れた県立の進学校に入り、その後、県内の大学に進んだ。

要領よく何かをこなす
という特技は、IT系の仕事では功を奏した。

要領がよければ、効率が求められるところでは成果が出る。
ところが、この仕事に全く喜びが感じられなかった。

中学の頃から、ずっと空虚だった。
その心の状態を学ぼうと、大学では心理学を専攻して、親の不仲やアダルトチルドレンにも原因を求めてきた。

そうして過去の心の痛みを持ち出していると、いつまでも頑張らないでいられた。

親や社会に認められることをしているんだから、「これでいいでしょ」
という拗ねた態度が、わたしを人生を楽しまないダメな大人にしたのだと思う。

その後、逆転行動に出て好きなことをしようと30歳から自営業になるが、頑張らない不幸癖が抜け切れずにきてしまった。

ただこのダメな人間も、時には人の役にたつことが最近わかってきた。

わたしには、独特のスイッチがある。
これは、弱みを裏返した強みなんじゃないかと思う。

大学生のとき、個人指導の塾講師をしていた。
何も告げられず担当になった女生徒がわたしに懐いたのを見て、塾長や同僚が驚いた。
その娘には手を焼いていたらしい。心を閉ざして全く会話もしない彼女と私は最初から談笑していた。

ITの会社では、気難しい変人のエンジニアに囲まれて、わたしはコーディネートの仕事をした。
天才タイプのエンジニアは、コミュ障で英語のレポートが書けなかった。
わたしは、怒られながらもやっぱり懐に入っていた。

出向や派遣で何社か行ったけど、ちょっとはみ出た人がわたしに相談をしてきた。

わたしは人を鼓舞するようなことは言わないし、対面したときに空気を合わせることをする。
頑張ることが出来ない人間でも役に立つことがあったのだ。

華の30代は次第に暮れていった

わたしは、会社勤めが性に合わず、日本の生活から逃げることを決意した。

ある程度お金を貯めて、ネパールに移住して人生を逃げ切るつもりで行ったり来たりをしていた。

けれど、そうは問屋がおろさず色々なことが起き、日本で小商いをいくつか始めた。

とんとん拍子でうまく行き始めると、もう不便な移住なんてしたくなくなっていた。いつのまにか稼いで日本でリッチな暮らしを夢見るようになっていた。

次に、2005年頃から流行りはじめていたセラピスト業に乗り出した。

10代の頃から心理学の勉強をしてきたので、これこそが自分の生きていく道だと確信した。

セラピストの仕事は、とても性に合っているように思えていた。子供の頃から母をはじめいろんな人から相談事をもちかけられやすく、息をするように人の相談に乗れたので天職だとも思った。

ところが、だんだんと苦痛になってきていた。

やさしさを前面に出し、感謝されるセラピストという仕事は、あまりにも効率が悪かった。

わたしは疲れて、次第に焦っていった。

もっと効率的に稼ぐビジネスをして、セラピストは道楽としてやれば続けられるのではないかと考えた。

経済面を安定させるため、輸入ビジネスに乗り出した。

最初はうまくいったが、あるアクシデントから多額の借金を背負い、荒れ狂って離婚した。

人生はどん底に落ちたようだった。
お先まっくら。
どうしていいかわからなかった。

以前から興味を持って本を読んでいた、占いに傾倒した。

3年後にラージャヨーガ(成功)がくる!というのを頼りに、薄暗い部屋に1人でこそこそ隠れ住んだ。

失敗した自分が恥ずかしかった。ののしって暴れまくって相手を深く傷つけ人生を台無しにした、家族にも迷惑をかけた自分を最低最悪だ、と自分を責め続けた。
罪悪感でいっぱいで、誰とも関わりたくなかった。

そして心の中は、不平不満と自己否定ばかりが続いていた。

他人から良いと思われて、効率よく稼げることをスピーディにこなすことを目標にやってきた私は、やはり「ダメな大人」になっていたのだ。

褒められなくてもやりたいことは何か

スピリチュアルに傾倒し、わたしの使命はなんなのか、カルマや宿命などからきていることを考えた。それらも参考にしながら、決定打の質問は以下の2つだった。

100億円あったら何をしたいのか、来世があったらどんな仕事につきたいのか。

  • 100億円あったら、環境をよくする事業をしたい
  • 来世は、ライターの仕事につきたい

自らの答えから、わたしは生活に根ざした分野で、書く仕事をして役に立ちたいのだと自分の望みを理解するようになった。

人の営みがたくさんある中でわたしが関わっていきたいことは、とくに医食の分野だ。

その分野の、ちょっと変わった先生たちをサポートすることが私の強み(変人との親和性が高い)が活用できそうに思う。

他人のことに配慮もせず、自分がどんな人間なのかばかりを考え費やしてきた日々は、今考えれば闇だった。

現状を嘆き、自責や他責を繰り返す暗がりを知った私には、日々の暮らしを賢明に工夫して切り開く人たちがとても眩しく映る。

現実から逃げずに、今を自発的に楽しんで明るいところで生きていきたいと思う。

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